Just a memory.

ただの記録

中国へ

相席屋にはいった。1組目の女はひどく不細工で、お腹がすいていた僕は割りきって食事に専念することにした。そのつっけんどんな態度が気に障ったせいか、30分ほどでその席は追い出され、僕たちは違う席へ移動する。そこで出会ったのが、キュートな中国人と日本の大学生で、舞い上がって酒を飲んで話したのだった。

 

そこで約束をとりつけたのは中国語を教えてもらうこと。当然その日は帰宅したが、2週間後にレッスンしてもらう約束をして、それが昨日のことだ。昨日は朝9時発の電車に乗り、カフェまで行ったのだった。

 

さて、90分ほどだべりながら勉強し、昼飯も食べず(当然誘ったが)別れたのだが、当イベントは僕の性愛生活に一石を投じるものである。今まで、はじめてあった相手とは、酒飲んでセックスするぐらいしかすることが無いと考えていたのだが、語学を教わるという別の価値を発見したのだ。実際に僕は今日、夕方まで寺めぐりをしていたが、夜家に帰って30分ほどいー、あー、さん・・・いーばい、いーちー、いーわん、等々つぶやき始め勉強をしており、自分でもこういうことをはじめてしまうということに驚いている。というのも、セックスは短期的な快楽しかないが、語学にはもちろん長期的な利便や価値があり、女との関係のなかで長期性というものを重要視するという経験をほとんどしたことがないのだ。

また、ことあるごとにラインの写真を見て、かわいいかわいいとつぶやいている。これは・・・まじほんの恋だ!ちげえねえ。

 

 

意味の無い冗談はやめておこう。もし今後問われるしたら、それは次のようなことだ。もし僕が中国語を完全にマスターしてしまったとき、僕にとって相手はまだ自明のこととして必要な存在だろうか?どんなにスタイルのいい女でも一発やってしまえば意味はなくなる。いや、性欲は3時間ぐらいに復活の可能性を秘めているからまだましかもしれない。しかし語学はそうではないのだ。

考える

考え抜くことによって自分の正しさを認識した。すこし心が落ち着いた。それと同時に周りの人間へのフラストレーション・・・かれらの馬鹿さ、蒙昧さ、愚昧さ、頭の悪さ、知恵の無さ、想像力の欠如、公平性の欠如、物事を真摯によくしていこうという態度の欠如、弱者への配慮の無さ、あまりに公務員的な仕事っぷりに嫌気が差し、あさってぐらいに振休とろうかなと思ってる。

 

考えてみろよ。俺はどんな本でも真摯に読もうとしてきたし、できるだけ物事を公平に判断できるよう、考えてきたはずだ。俺より正しい人間はいない。また、すべて引き受けるし責任はとる。他人のミスでどれだけ自分が謝ってきたか(お前らは俺のミスで謝ったことがあるのか?死ねよ)。文句を言わず我慢してきたか。

 

神がいないから、自分の正しさの証明は不可能だ。だから僕はカントやキルケゴールフロイトフーコーデリダドストエフスキーシェイクスピア、果てしなく観た映画たち、ささやかな人生経験、そして自分自身の聡明さを信じ生きていくしかない。そしてそれらは日々の研鑽によって磨いていかなければいけない。

 

「ゲンロン0」を買ったので読もう。

記憶をたよりに

今を生きてるんじゃない。記憶に生かされている。夏の夜。時計の針をは動くことをやめる。静けさ。

 

そのときは大した感動ではなくても、長く頭の中に残る風景がある。潮の香りと、森の重層的な空気に呑まれたことになってしまって?

リップヴァンウィンクルの花嫁

本日のコース。女から飲み会いけないの電話あり。じゃあ埋め合わせしなきゃね、今から飲まない?冗談半分のぼく、がしかし、え、きてくてるのほんとにの流れで、深夜0時手前におち合い、泡盛、カラオケ、峠の我が家。

 

前日にリップヴァンウィンクルの恋人をひとり家で見ていた。何分映画なのかチェックせずに見始めたものだから、なかなか終わらないなぁと思い見てみると180分だったからびびった。そんだけ。

 

我々は贈与存在に対し、「ぼくなんかにそんな・・・」「この俺に何か与えられるなんてつけあがってんじゃねーよ」という2つの感情に引き裂かれる。自己肯定の低さと傲慢さは隣りあわせだ。そしてそれ以外の感想は存在しない。

shame


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会社送迎会。めずらしくぐでんぐでんになり、何回も吐いて、苦しい記憶しかない。千鳥足で家まで歩き、便所でまた吐いて、かろうじでコンタクトをはずし、布団にもぐりこむ・・・意識はかなたへ。

 

朝起き、そこまで体調がおかしくないことに気づき、友達に電話をかける。本当は昨日婚活にいく予定だったのだが、送迎会で流れてしまったので、埋め合わせを。N市まで行き、オープンしたての中華料理、4Dキングコング成田山、パチンコ、しゃぶしゃぶ、温泉。すっきりしたいい一日であった。また、帰り際にF氏とS氏が一緒に帰ってるところを目撃。気に入ってる女の子が別の男といっしょにいる風景。僕は報復をしなければならない。聡明で、ユーモラスで、体型をかっこいいものにしなければならない。絶対に他の男よりいい男にならなけばならないのだ。「ヒストリエ」新刊を発見したので、買って読む。

 

翌日は早速走る。きょうじょのほうまで登る。家に帰りあまりもの、卵とジャガイモでポテトサラダを。ヨドバシに移動。喫茶店を梯子し、ドストエフスキー地下室の手記」を読む。あまり頭に入ってこなかったが、聡明になるために、がんばって読むのだった。悩んだ結果その日の婚活パーティに登録。ペンを買って地下へ潜入すると、しきりのない一空間に椅子が何個か置かれていて、「寄生獣」のワンシーンを思い出したのだった。ぎりぎりにいったのでシートもろくに書かず、スタート。かわるがわる女と似たような話をしていくのだが、あまりに記憶に残らないのだった。ひとりタイプの顔の子がいたけど、うまくつかめず、残念だった。結局2番目に書いたいけるのではないかと思われる女の子とカップリングしてしまい、一昨日飲んだくれたことを神棚の上に置き、居酒屋に行くのだった。翌日仕事といっていたので、あまり無理はせず、外で手をつないで顔近づけて、ぐらいで見送り終了。家に帰るとSNSで会わないかという提案が通ってたので、明日のアポをとり、眠る。

 

翌日、河原町へ。カフェ3階で待ち合わせ。若い女だった。街を歩くとウインドウに並んでいるものすべてに関心を持ち、ひとことコメントをつけては次の瞬間忘れていった。餅、ランチ、猫カフェの順番に回っていき、時間があるからと家に帰っていった。1500円、2000円、2000円なり。考えた末、そのまま京阪→叡電、鞍馬へ。木々は鮮やかに緑をなし・・・くしゃみ。radwimpsを聞きながら、貴船神社まで抜ける。途中女性に話しかけるチャンスが2回はあった(話しかけなかった)。烏丸にて、映画を2本借り、買い物を済ませ、家に。洗濯物を干しながら「shame」鑑賞。セックス依存症の男の話。昨日と今日のこともあり、すこしシンクロする。男は人間であろうとするならば、狂うしかないのではないか。

 

数年前、横浜で会った女と似ていた。飲み屋のあとみなとみらいまで歩き、海沿いのコンクリートに寝そべってキスをした。ホテルに誘ったけれどうんといわず、朝が来て始発で帰ろうとするとなぜか藤沢まで着いてくるのだった。地面ごろごろしていたせいで着衣は汚れていたが、いっこうに気にしてない様子だった。自分の家でやろうとしたけど、無理といわれて結局何もしなかった。えらいと言われ、失笑したのを覚えてる。鉄板焼きを食べ、大船まで送り、そのあと・・・そう、ひとりドライブ最中、たまたま通りかかった134号線、サザンビーチの通りで、桑田さんの生歌。僕は幸せだったのだ。

 

着衣の乱れを気にせず、自分の好きなものにまっすぐであること。屈託無く笑うこと。典型的なビッチである。だがひとりのビッチを前にするととてつもなく混乱する。相手にとって自分が特別でないことがあまりに自明であるのにも関わらず、笑顔を向けてくる。その恐怖と幸福。そして相手を自分のものにしたいという欲望。婚活であった女なんて目じゃない。自分にほれる女は、自分にとって何の価値もない。ビッチがもたらす二律背反、それが僕にとって意義のある感情なんだ。