Just a memory.

ただの記録

時間のないホテル

いかに自分を納得させられるかが重要だ。ひたすらテトリスをやり続けることによってなのか、女とやりまくることによってなのか、人それぞれではあるだろうが、確かにいえることは、それを行い多少なりとも腑に落ちることになるのであれば、思う存分それは追求すべきであるということだ。少なくとも腑に落ちないまま結婚してはいけない。いろいろな異性とやればいいし、自分にとっての相手の交換可能性、その逆も然り、人間に対するあきらめと自分自身に対する絶望を感じ、カオスに巻き込まれた後、その腑に落ちる瞬間がくればそれにまさる幸せは無いのだ。

 

すべての人にいい顔して生きていけると思うな。そんな人間はクズである。自分の幸せや好きになった人間の正しい幸せや、社会の中における公平性、それらを鑑みたとき、ときとして他人から嫌われざるをえないときもある。恐れてはいけない。信念ではない。公平性とはもっと事務的なものだ。僕は苛立っているのだ。

けして忘れてはいけないこと

99パーセントの人間がクズであるということ。頭のいい人間のふりをする気はさらさらない。しかしたいていの人間は頭のいい人間として振舞うことに躍起になっており、しかもそういうのに限ってまともな人間とはいえないクズである。死ねばいい。

 

 

自分が生きるためには、さっさと死ぬしかないんだよ、なにいってんだいまさら。

中国へ

相席屋にはいった。1組目の女はひどく不細工で、お腹がすいていた僕は割りきって食事に専念することにした。そのつっけんどんな態度が気に障ったせいか、30分ほどでその席は追い出され、僕たちは違う席へ移動する。そこで出会ったのが、キュートな中国人と日本の大学生で、舞い上がって酒を飲んで話したのだった。

 

そこで約束をとりつけたのは中国語を教えてもらうこと。当然その日は帰宅したが、2週間後にレッスンしてもらう約束をして、それが昨日のことだ。昨日は朝9時発の電車に乗り、カフェまで行ったのだった。

 

さて、90分ほどだべりながら勉強し、昼飯も食べず(当然誘ったが)別れたのだが、当イベントは僕の性愛生活に一石を投じるものである。今まで、はじめてあった相手とは、酒飲んでセックスするぐらいしかすることが無いと考えていたのだが、語学を教わるという別の価値を発見したのだ。実際に僕は今日、夕方まで寺めぐりをしていたが、夜家に帰って30分ほどいー、あー、さん・・・いーばい、いーちー、いーわん、等々つぶやき始め勉強をしており、自分でもこういうことをはじめてしまうということに驚いている。というのも、セックスは短期的な快楽しかないが、語学にはもちろん長期的な利便や価値があり、女との関係のなかで長期性というものを重要視するという経験をほとんどしたことがないのだ。

また、ことあるごとにラインの写真を見て、かわいいかわいいとつぶやいている。これは・・・まじほんの恋だ!ちげえねえ。

 

 

意味の無い冗談はやめておこう。もし今後問われるしたら、それは次のようなことだ。もし僕が中国語を完全にマスターしてしまったとき、僕にとって相手はまだ自明のこととして必要な存在だろうか?どんなにスタイルのいい女でも一発やってしまえば意味はなくなる。いや、性欲は3時間ぐらいに復活の可能性を秘めているからまだましかもしれない。しかし語学はそうではないのだ。

やばし

知らぬ間に、5人ぐらいの女の子にラインを送ってしまった。精神の病みであり、死にも等しいカス具合である。ヤバいのはこの無感覚さ。何も傷ついてない。キンタマブラブラ、おっきくなったもんだ。

考える

考え抜くことによって自分の正しさを認識した。すこし心が落ち着いた。それと同時に周りの人間へのフラストレーション・・・かれらの馬鹿さ、蒙昧さ、愚昧さ、頭の悪さ、知恵の無さ、想像力の欠如、公平性の欠如、物事を真摯によくしていこうという態度の欠如、弱者への配慮の無さ、あまりに公務員的な仕事っぷりに嫌気が差し、あさってぐらいに振休とろうかなと思ってる。

 

考えてみろよ。俺はどんな本でも真摯に読もうとしてきたし、できるだけ物事を公平に判断できるよう、考えてきたはずだ。俺より正しい人間はいない。また、すべて引き受けるし責任はとる。他人のミスでどれだけ自分が謝ってきたか(お前らは俺のミスで謝ったことがあるのか?死ねよ)。文句を言わず我慢してきたか。

 

神がいないから、自分の正しさの証明は不可能だ。だから僕はカントやキルケゴールフロイトフーコーデリダドストエフスキーシェイクスピア、果てしなく観た映画たち、ささやかな人生経験、そして自分自身の聡明さを信じ生きていくしかない。そしてそれらは日々の研鑽によって磨いていかなければいけない。

 

「ゲンロン0」を買ったので読もう。

記憶をたよりに

今を生きてるんじゃない。記憶に生かされている。夏の夜。時計の針をは動くことをやめる。静けさ。

 

そのときは大した感動ではなくても、長く頭の中に残る風景がある。潮の香りと、森の重層的な空気に呑まれたことになってしまって?

リップヴァンウィンクルの花嫁

本日のコース。女から飲み会いけないの電話あり。じゃあ埋め合わせしなきゃね、今から飲まない?冗談半分のぼく、がしかし、え、きてくてるのほんとにの流れで、深夜0時手前におち合い、泡盛、カラオケ、峠の我が家。

 

前日にリップヴァンウィンクルの恋人をひとり家で見ていた。何分映画なのかチェックせずに見始めたものだから、なかなか終わらないなぁと思い見てみると180分だったからびびった。そんだけ。

 

我々は贈与存在に対し、「ぼくなんかにそんな・・・」「この俺に何か与えられるなんてつけあがってんじゃねーよ」という2つの感情に引き裂かれる。自己肯定の低さと傲慢さは隣りあわせだ。そしてそれ以外の感想は存在しない。