Just a memory.

ただの記録

deathです

ネットカフェに来ている。昨日も来たのだけれど、漫画を読んでしまって、やらなきゃいけないことに手がつかなかった。試験の申し込みをしなきゃいけないんだけど、非常にめんどくさいのだ。

 

このネカフェは音楽の趣味が非常にいいと思う。ジブリで始まるアニソン、そしてなにより相対性理論渋谷慶一郎の『blue』が流れていた。いいところついてると思う。

 

いつもといえばいつもなのだけれど、現在不安を抱えていて、結果来週にならなければ何もわからない。それまで大阪や兵庫ででたらめなバイトはあるものの、なんとなくふわっとしていている。考えたくないのだけれど、現状維持ではまずい。

 

 

こんなフラッシュモブがあればいいと思う。8月の暑い月曜日、仕事をしていなくて昼過ぎに起きた男は、パチンコでも打ちにいこうと短パンTシャツつっかけで家を出る。途中コンビニでカロリーメイト爽健美茶を買うのだけど、レジのおっちゃんの手がいきなりとまって、隣のレジの店員と客の手も止まって、次の瞬間一人の女性客が4人の間を踊るようにはいってきて、3人にタッチをして硬直の魔法をとく。みんな踊りだし、困惑している男は、いつのまにか陳列棚間の中央通に向き合ってて、バージンロードが敷かれ、その先には「時給850円 私たちと一緒に○○コンビニを盛り上げませんか?」と書かれたプラカードをもったお姉さんが立っており、告白される・・・

 

 

 

何かに心を奪われることが本当に少ない。歳をとったせいなのか、僕がそういう人間だからなのか、情緒不安定なだけなのか、それはわからない。だから何かにコミットすることができず、なにもないまま1日が終わりを告げる。うだうだ言っているだけなのはよくわかってる。本当に死ぬべきなのだ。

 

 

なぜ安楽死という選択肢が合法化されないのだろう。最近そればかり考えている。老人は無駄に生き長らえ、お金はかかり負担も大きい。ペシミストやブスやデカダンやロックも然り、死ぬことによって解決できる問題は多いだろうに。本当にやりきれない。