Just a memory.

ただの記録

おろかさ

今楽しいと思っているコミュニケーションがあったとしたら、時間を経たのちはそれを退屈と思わなければならない。そしてまた別のコミュニケーションに興じるべきである。おおよそそれが成長であり進化だ。ただある場合にはそれはよくない方向へのシフトであって、一般的には新興宗教へのシフトは質が良くない言える。

よいシフトかどうかを見極める基準として、その新しいコミュニケーションがまた別のコミュニケーションにシフトする種子を秘めているかどうかがあげられる。新興宗教は教祖の御言葉が絶対であり、その教義のなかでパターン化されたコミュニケーションを繰り返すしかない。変化も何もありはしない。

 

しかし変化に耐えるためには謙虚でありプライドを括弧にいれタフな精神がなくてはならない。子供は飄々としているから、昨日まで拘っていたようなコミュニケーションも、次の日には別の何かにかわっている。でも大人になるにつれそういうことが難しくなってくるのだ。

 

LINEのやりとりもパターン化され、相手のことがどんどん嫌いになる。特定の人間と長く付き合わないほうがいい。この想いを汲み取ってほしい。これいじょう俺に連絡してくんな。

 

それと同時にシフトしたとしてもシフトする前のことも忘れてはいけないという、文学的問題もあり、昔好きだった女の子と数年ぶりに再会するときなどにそれはそう思うのだが、この矛盾はいったいなんなんだろうか?