Just a memory.

ただの記録

始まりと終わりと繰り返し

「何かに熱中することができないんです」という訴えには、「世の中の人間は私より頭が悪いから、私にとってくだらないことに熱中することができるんです」という揶揄が含まれている。そういう自意識の問題について解決することはできないが、何かに熱中することについて考えたことがあるので記しておく。

 

仕事や勉強について、興味のないもの、熱中できないものに取り組むのはつらく、鬱の原因になる。だから「熱中できるようになること」は大事だ。そして熱中できるということは、その対象に洗脳されているということである。だから問題は、洗脳されていない人間が、いかに洗脳されるか、ということである。

 

会社によっては新人社員を海山に連れてって、ワイルドな訓練なんかして、最後は鬼教官が実はユーモア溢れる人柄で・・・的なことをやるかもしれないし、別にそんなことをしなくても、ある程度普通の会社の真面目な社員であれば、働いているうちに何かしら洗脳される。それはいいとして、書きたいのは、それでも洗脳されない人や、どうもやる気の起きない就活生についてである(要は自分のこと)。

 

「洗脳」という受け身の言葉に、「熱中できない」人間がどう向き合うべきか。簡単である。意図的に自分を洗脳させるのである。それは誰であっても、ほぼ可能であると考える。

 

ポイントは2つあるように思う。1.場を移すこと、2.物語を作ること。

 

1.場を移すことについて。ランボーラカンを引き合いに出すまでもなく、人は周りの環境から影響を受けている。場を変えることによって、それまでもったことのなかった欲望が生まれるかもしれない。就活生であればインターンに参加したり、就活フェアにいって人と話したりするのがいいかもしれない。「インターン意識高いから無理」というのが通説だけども、意識が低い=熱中できるものが無い人こそ参加すべきなのだ。

 

2.物語を作ること

これは頭の中の作業。自分がどういう物語の主人公であれば頑張れるか考える。全くもって高尚である必要はない。その物語の中で、自分がどういうキャラとして振る舞い、他人からどう評価されたいか。明るくバリバリの営業マンだけど女たらしで退廃的でもいいし、公正さを重んじる人柄で社内の中で良識の鏡として評価されてる、でもいい。ただ小説を書くためにはお膳立てが必要だから、ドラマを見たり人と話したりして構成していく必要があるかもしれない。

 

さらにもう一つ。意図的な洗脳が可能ならば、それを解除する術も身につけておかなければならない。でなければ転職するさいの切り替えがうまくいかない。そのまま物語を更新してもよいが、いったんリセットさせて、「結局なにも意味無いんだから、何かに熱中できるなんててんでおかしくて、狂ってるに過ぎない」という地点に立ち戻ってもいい。この考えの長所は、なにに洗脳されていたとしても、戻りやすい地点であるということである。また、前述の1、2のように、洗脳を求め多方向へ伸びる関心群に執拗に粘着してしまうという問題はあるが、やはりそここそ乗り越えねばならない部分であろう。

経過

台風10号と寒波?のせいで、朝からめずらしく雨だった。8月は雨が少なく、べとべととした暑い日が続いていて、その意味では木や草やコンクリートにとって、そして人間を含む動物にとって、いいことであると思う。ただいてもたってもいられない病に罹患している僕は今日引越しの準備とかをしてしまいたく、雨の中本を売りにいったりして、大変であった。

 

 

最悪のときはもう過ぎたはずだ。あの事件を思うとき、僕はその中でもあやかのことを思い出す。きっと笑顔が屈託だったからだろう。そのときに罪悪感、謝罪の気持ち、それらは決して解決されることではなかったけれど、今こうして僕が自分自身のことで苦しんでいることによって、罰を受けているのだと信じる。だからこそ報いを。

 

しかしここ最近になってすこし落ち着いてきている。理由はわからない。仕事が終わったからかもしれない。いいことか悪いことなのかもわからない。ただ今ある心の水位が、どう転んだとしてもあがったりさがったりすることなく、次へ次へと邁進できることを望む強く望む。いい食事を。

deathです

ネットカフェに来ている。昨日も来たのだけれど、漫画を読んでしまって、やらなきゃいけないことに手がつかなかった。試験の申し込みをしなきゃいけないんだけど、非常にめんどくさいのだ。

 

このネカフェは音楽の趣味が非常にいいと思う。ジブリで始まるアニソン、そしてなにより相対性理論渋谷慶一郎の『blue』が流れていた。いいところついてると思う。

 

いつもといえばいつもなのだけれど、現在不安を抱えていて、結果来週にならなければ何もわからない。それまで大阪や兵庫ででたらめなバイトはあるものの、なんとなくふわっとしていている。考えたくないのだけれど、現状維持ではまずい。

 

 

こんなフラッシュモブがあればいいと思う。8月の暑い月曜日、仕事をしていなくて昼過ぎに起きた男は、パチンコでも打ちにいこうと短パンTシャツつっかけで家を出る。途中コンビニでカロリーメイト爽健美茶を買うのだけど、レジのおっちゃんの手がいきなりとまって、隣のレジの店員と客の手も止まって、次の瞬間一人の女性客が4人の間を踊るようにはいってきて、3人にタッチをして硬直の魔法をとく。みんな踊りだし、困惑している男は、いつのまにか陳列棚間の中央通に向き合ってて、バージンロードが敷かれ、その先には「時給850円 私たちと一緒に○○コンビニを盛り上げませんか?」と書かれたプラカードをもったお姉さんが立っており、告白される・・・

 

 

 

何かに心を奪われることが本当に少ない。歳をとったせいなのか、僕がそういう人間だからなのか、情緒不安定なだけなのか、それはわからない。だから何かにコミットすることができず、なにもないまま1日が終わりを告げる。うだうだ言っているだけなのはよくわかってる。本当に死ぬべきなのだ。

 

 

なぜ安楽死という選択肢が合法化されないのだろう。最近そればかり考えている。老人は無駄に生き長らえ、お金はかかり負担も大きい。ペシミストやブスやデカダンやロックも然り、死ぬことによって解決できる問題は多いだろうに。本当にやりきれない。

リラダン

生きることなんて召使いに任せればいいとリラダンは言う。最近僕は生きることしか考えてなくて(お金、仕事、住まい)、その状態は死んでることと一緒だと思う。死んでもいいかもっていうセリフは、自分が生きた人間であると思いこんでることからして傲慢だ。

 

 

すくない言葉

「ベンチを一人独占していることに、若干の心苦しさを感じてたところだったんだ」

 

アララギ君は饒舌だと思う。「物語シリーズ」は饒舌さと、動かない背景が引っ張っている。

 

ラノベをもとにしているアニメは、言葉数が多い。それはよくも悪くも、だ。ただ僕個人としては、「あの花」ぐらいが好きだ。いや、実際には、「あの花」でも多すぎると思ってる。画面の移り変わりと、キャラの表情の動きと、もっとすくない言葉があれば、アニメは作れると思う。

体調

同居人がどうやら本日も帰っていないらしく、すこし羽を伸ばすことができる。

 

シェアハウスはどうしても相手に気を使ってしまう。ただしそれもこみで格安で住まわせてもらってるから、文句のつけようはない。1ヶ月数万で、家一人いるというのは贅沢なものである。

 

しばらくー一週間ほどだと思うがー実家に帰っていて、すこし身体の感じが変わったような気がする。途中アイスを食べ過ぎ、口内炎になって、すこし食べるものに気を使うようになったせいかもしれないが、歩きも軽く、いつもより考えることも楽観的である。現実は地獄と隣り合わせではあるのだけど、それはそれとして、目の下の隈でさえもこころなしか気品があり、前向きになっているような気がする。もちろんすべて気のせいではあるのだけれど。

 

パチンコをうつきにはあまりなれない。今日は6万おろし、住民税と国民年金を支払ってきた。将来支給されるか定かでない国民年金を、パチンコで勝ったお金で支払っていると、自分が偉大な哲学者になった気がする。万事はそういう風にして回っている。

 

 

実家に帰ったときに、ブッセの話をした。

 

山のあなたの空遠く

さいはひ」住むと人のいふ。

ああ、われひととめゆきて、

涙さしぐみ、かへりきぬ。

山のあなたになほ遠く

さいはひ」住むと人のいふ。

 

コピペ。僕に欠落しているのは遠い空だ。すべての細胞の心が奪われてしまうような何か。それを「□市」に求めることはできるだろうか。それも変な話だ。私が私を失ってしまうような場所で・・・

 

僕はまるで詩を書いているようだ。論理的な文章をかくためには頭を使う。前の文章があり、それに続くような文章を書かなければいけない。それは僕にとって非常に難しい作業だ。だからこのように、一生懸命手を動かしてタイピングしているとき、論理的になるはずがないのだから、これは一篇の詩に過ぎない。僕は詩が好きだ。なによりも好きだ。「にわかにもその長く黒い脚をやめ」賢治は言う。「二つの耳に二つの手をあて」そして、「電線のオルゴールを聴く」

 

いったい僕は何を書こうとしているのだろうか。こんなものはただのなぐりかけに過ぎない。学生のころのほうがまともにものを書いていた。僕は明るい未来について語るべきだ。しかしそれももう望めない話だ。いったいなにが僕を僕たらしめたのだ。

 

閑話休題。実家にいるときの話。3連夜死にまつわる夢を見た。

初夜は自分が人を殺したことがあるという夢。実際の殺人シーンはなかった。ただ夢の中の自分に、人を殺したという記憶があり、その記憶を隠しながら普段の生活を営んでいるという話だった。

第二夜は僕が殺される話だ。誰に殺されるのかは覚えていない。確かナイフでドスン、だったような気がする。死ぬときはたいていナイフが登場する。真夜中の電灯の光が反射してぎらっとひかり、犯罪者は嬉々として僕のわき腹を刺すのだろう。あまり覚えていないのだ。

第三夜は人を殺しが僕が裁かれる話だ。初夜の続きと考えればよいかもしれない。検事らしき人間がでてきて、僕が人を殺したという証拠をべらべらと口にする。その姿は舌の長い斜視の男を思わせる。知性も何も感じない。そして、僕が今おかれている状況、つまりは弱みについて述べ、白状しなければお前の未来はないと脅したてる。とうぜん僕は土下座をした。この深層意識はたいしたもので、30齢にして、僕がここまで現実に参ってしまっているということを、僕の夢が僕自身に照射したのだ。僕は不条理な暴力にさえ、臆することなく屈服している。正義も公正もありゃしない。

 

ああ、明日はバイトではないか。いいことだ。人と話せるということはいいことだ。しかも僕は人前でしゃべってるバイトだ。これは週末の練習になる。考えてしゃべること。しかも×6とくる。たいしたもんだ。決戦は3日後だ。ひとつひとつ鍛えなければいけないのだ。

 

シン・ゴジラは横断する

シェアハウスは今月いっぱいでやめる。差し押さえになって引っ越すからなんだけど、もう一度したいとは思わない。理由は簡単で、夜12時をまわったあとに、鼻歌を歌いながらご飯を作ることができないからだ。

 

もうすこしほんとのことを書くと、今回の件で、同居人は果てしなく家主に怒りを感じてて、そして僕にいっしょに怒ろうと同調を求めてくる。それが果てしなくうざい。

 

怒りはもちろん最もである。しかし所詮4万ほどで1ヶ月住んでいたのだし、そういうリスクはしょうがないと思う。子供がいるわけでもない。この住まいが駄目なのであれば、次を探せばいい。自分の身ひとつぐらいなんとでもなる。ググればいくらでもシェアハウスの求人はある。でも執拗に家主の欠点をあげ、公益費に不正があるんじゃないかとか、僕にもいろいろいってくるくせに、退去をまだ決めてない。文句言ってるくせに依存しているという、ありがちな構図を踏襲してるように思う。

 

同情はする。たぶん30代後半でたぶん彼氏がいない。やたらとfacebookの書き込みも多い。なにかを批判したり、自分が語りをしてる。さみしいんだと思う。男はさみしくなったら風俗にいくなり、出会い系をやるなり、飲みまくって女の子襲ったりして、軽減する方法を持っている。そして(稼いでいるなら)いずれ結婚できるだろう、ぐらいに考えてる。生真面目な女性にはそれは難しいかもしれない。

 

 

シン・ゴジラ」を2回見た。1回はひとりで、2回目は姉姪と。思うことはあったんだけど、他のブログでもいろいろ書いてあったから、ひとつだけ。

 

ゴジラは2度目の上陸で、江ノ島を背景に鎌倉から、横浜磯子区、川崎、東京駅へと進んでいく(だいたいの記憶)。観光地→ニュータウン→工場地帯→オフィスビル&官公庁、みたいなイメージだ(かなりだいたい)。

 

僕はつい最近まで、藤沢市という、横浜とか鎌倉の隣接都市である、観光色とニュータウン色の強い町で仕事をしていたことがある。本社が別にあり、その支部みたいな感じのところで、無駄にあくせくと働いていた。ときどき全社でテレビ会議とかもやってて、本社側としては社員が勝手なことをするのではなく、成功例をモデルに数字を出してほしいみたいだった。

休日はあてもなく江ノ島や鎌倉にいった。ポケットに本だけ忍ばせて、観光客に混じってうろうろしていた。観光地は「~テレビで紹介されました!」みたいな宣伝の仕方をしてるところも多かったけど、大通りの裏みたいなところで、ちょっとした魚の定食を食べさせてくれるようなところもあって、僕はそっちを好んだ。

また、ネットを通じて何人の女の子とも出会った。覚えている限りもう少し正確な数字を書くと、横浜~小田原間にかけて、セックスに至ったのは4人、飯とかドライブだけが4人・・・んん、もうすこしいる気がするけど、まあいい。フリーター、ダンサー、主婦(寝てないよ)、正社員?、とか、とうとう。父親がいないパターンが多かったような気がするけど、基本そのへんの因果関係はどうでもいい。たいていの女とは会って飯食ってドライブに行き、鎌倉や横浜の丘陵地にある、あまりに画一的に並んだ住宅街を横目にしながら、僕はこのままホテルにいっていいもんかと考えていた。

そしてゴジラは僕のその微妙すぎる記憶を横断していった。

 

 

工場地帯へ。工場地帯らしい場所に住んだことはない。でも長野の故郷が、トヨタの下請けの下請けが密集してるような町で、学校からの帰り道には汚らしいバネ工場がいくつかあった。工業高校が近くにあり、公立中学で入試得点500満点中200点ぐらいのやつらがそこに入学し、そのまま就職していった。彼らは基本馬鹿で短気で単純で、僕は大嫌いだったので、彼らの監督をするような仕事には就きたくないと思った。メーカーとかは避けた。だから工場地帯はいまでも苦手だ。

だけどもゴジラは煙のあがるコンビナートの間を、横断していった。

 

 

東京駅へ。大学生のとき、夜行バスに乗って、東京駅の前で降りたのは5時過ぎだったと思う。どこもあいてなく、バス内でかいた汗を流すべくサウナなんかに入って、これって前日入りしてホテル泊まってもあまり変わんないんじゃね?とか思う。眠い頭でいくつか会社を訪問して、なにやってんだろうなぁ俺とか思って、鬱になったりもした。そしてゴジラは、東京駅前、夜中に発光し、苦しそうに黒い煙のようなものを吐いたと思いきや、そのまま美しい光線で、911の飛行機のように、摩天楼を破壊して行った。そしてもちろん最後にはそこで冷凍された。

 

僕にとってこれらは分断された記憶だ。それぞれの記憶の共有者は何人かいるけれど、このつぎはぎを不連続に覚えているのは僕だけだ。そこには楽しかったこと、つらかったこととかあるんだけど、なにより、それぞれの街の背景にある、由来のわからない闇のようなものが僕はなによりも怖かった。人間が生息することによって生じてしまう、非人間的な何かが確かにそこにはあった。それは僕の鬱にもつながっていった。

 

ゴジラの横断や破壊が僕にとってのテロ行為である、という話ではない。でもそれらの町をゴジラが横断すれば、すべての闇はゴジラに回収される。ぼくにとってそれが爽快だったのかもしれない。いかんせん、2度目の上陸時は、ほんとに泣きそうだったのだ。