子育て
ある親にとって、自分の子供がかわいいかかわいくないかなんてことは、世界にとってどうでもいいことだ。倫理的に問われることは、子供を前にしたときにまともに振る舞えるかどうか。振る舞えるなら育てればよいし、振る舞えないなら育児は辞めればよい。二つの可能性は倫理的に等価であり、育ててるいるから偉いという話ではない。
おろかさ
今楽しいと思っているコミュニケーションがあったとしたら、時間を経たのちはそれを退屈と思わなければならない。そしてまた別のコミュニケーションに興じるべきである。おおよそそれが成長であり進化だ。ただある場合にはそれはよくない方向へのシフトであって、一般的には新興宗教へのシフトは質が良くない言える。
よいシフトかどうかを見極める基準として、その新しいコミュニケーションがまた別のコミュニケーションにシフトする種子を秘めているかどうかがあげられる。新興宗教は教祖の御言葉が絶対であり、その教義のなかでパターン化されたコミュニケーションを繰り返すしかない。変化も何もありはしない。
しかし変化に耐えるためには謙虚でありプライドを括弧にいれタフな精神がなくてはならない。子供は飄々としているから、昨日まで拘っていたようなコミュニケーションも、次の日には別の何かにかわっている。でも大人になるにつれそういうことが難しくなってくるのだ。
LINEのやりとりもパターン化され、相手のことがどんどん嫌いになる。特定の人間と長く付き合わないほうがいい。この想いを汲み取ってほしい。これいじょう俺に連絡してくんな。
それと同時にシフトしたとしてもシフトする前のことも忘れてはいけないという、文学的問題もあり、昔好きだった女の子と数年ぶりに再会するときなどにそれはそう思うのだが、この矛盾はいったいなんなんだろうか?
はじめてのハローワーク☆
引っ越しをした。兵庫の某高級住宅広がる市へ。景観条例が厳しいせいか、最寄のコンビニは深夜営業をしておらず、夜寝れない僕は買いだめを考えなければいけない。それはいいのだが、僕はいつも夜コンビニまで行く道中を楽しんでいたのだ。コンビニが閉まっているのであれば、僕はただの徘徊者になってしまう。散歩といえば聞こえはいいのだけれど。
生まれて初めてハローワークにいった。もちろん職を探すためだ。舎には職にあぶれた連中がうろうろしていて、僕はまさにそんな連中の一人となったのだ。気味がいい。心がすっきりする。これで僕も左翼運動に仲間入りする切符を手にすることができた。しかし僕は左翼学者が大嫌いなのだ。彼らはどうひっくりかえっても大学教授という今の地位を返上せず、その意味で傍観者でしかありえない。
だからこのような矛盾に気づく。運動とは発信だが、僕が真に信ずるプロレタリアートとは、発信する能力も人脈もない、糞みたいに蒙昧な連中なのだ。僕はそんな連中の一人として、今を生き、次の瞬間死ぬことを考えている。
「君の名は。」失われた記憶の絶対化
京都の映画館は中高生とかカップルが多く、混じりたくなかったので三度目のシン・ゴジラを見た。飽和した。
反省、神戸のハーバーランドシネマズのレイトショーに参列。中高生はいなかったものの、カップルが多く、僕は思わず目を背けた。しかし!端から2番目に座ったんだけど、隣の恥の席は黒メガネのお姉さんで、危なく声をかけるところだった。「君の名は・・・!」
中高生は楽しいだろうな。カップルも楽しいだろうな。ラッドやしな。狙い撃ちやねん。俺は悔しい。
記憶がテーマ。主人公たちにとって、失われた記憶が絶対であり、それが気になってしょうがない。記憶の回復はつながることとセットになっている。これ以上ないハッピーエンド。世界改変してしまったけどな。
なぜ消えた記憶を絶対視するんだ。お前のその欲望はなんなんだ。
明日
なんだかんだ今日は郵便屋さんはこなくて、なんじゃそりゃって感じだった。そういうこともあるのだろう。
帰る家が2つある。この状況嫌いではない。神奈川でも似たようなことがあった。いつもどちらに帰るぺきか考えていた。不倫ではない。
お酒はいい。ストレスを緩和してくれる。少し心が落ち着いた。このまま近い方へ行ってしまうか。どうせ明日の朝はすることがないだろう。
housework
髪を切りにいったりクリーニングを出しにいったりするという、めんどくさくて先延ばしにしてしまうような事柄というのは、ただ待つことを強要されるときにのみ、積極的にやってしまう。たとえば収容所であり、あるいは合格発表を前にした受験生である。
housework は効率的なやり方さえ染みついてしまえば、あとはロボットである。人間にはロボット願望がある。ロボットは考えなくていいので、いろんなことに紛らわされずに済む。罪を犯してしまったことの社会的非難も、不合格だったときのことも。
さて、非常に眠いのだが、部屋をもうすこし片付けるとしよう。